2008年「タバコ:あの人にもっと生きてほしかった」コンテストのページにもどる


入賞作品

1位 須川 俊江 様 「ごめんね」と言われたけれど


 「ごめんね。」
 肺がんが発覚したとき、夫は、そっと言いました。その言葉に込められた思いを察して、私は静かに頷いたのでした。そうして、思ったのです。たばことの闘いは終わったのだと。
 「たばこ止めて。」
 「ドクターストップがかかっているでしょ、気胸をやってから。」
 「たばこに命を懸けるの。」
 「税金をいろいろ納めているのに更に払うの。」
 たばこを一向に止めようとしない夫に、言葉を探しては投げかけてきた日々でした。
 夫の姉や兄にも、
 「体に悪いので止めて欲しいのです。」
と、縋り付きましたが、
 「本人が自覚しなきゃ駄目よ。」
 「囲碁なんかに行かせるから、そこで吸うんだ。」
と、突き放されました。
 ある時は、どっさり買って帰ったら、無駄遣いが嫌いな夫は、勿体ないことをされて止めるかと思い付きました。そこで、財布にあった二万円でたばこを買ったのです。そうして、
 「吸いたいだけ吸いなさいっ。」
と、凄んだのです。が敵も然る者、
 「許可が出たんじゃ堂々と吸えるな。」
と宣ったものでした。後日談によると、あれは好みのものではなかったので、知人に上げて、吸ったのは別に買ったとのことでした。夫にとってたばこ代は、無駄遣いではなかったのです。
 格闘に疲れ、夫も吸わなくなったのではと思い始めた頃、突然付けが回って来たのです。
 肺がんが見つかったと夫から聞かされたとき、一瞬にして今まで築いてきた生活が、ガラガラと音立てて崩れていくのを感じました。一気に濃霧に巻かれ、方向も思考も失っていきました。−−−−−やっと我に返ったとき、負けず嫌いな夫はどうやって厳しい病と闘うのかと思うと、不憫で涙が溢れ出てきました。夫を守りきれなかった悔し涙も混じっていました。そんなときでした。夫が、
 「ごめんね。」
と言ったのです。そっと−−−−−。

「そら、ごらんなさいっ。」
「止めなかったからよっ。」
 そんな言葉は返せませんでした。黙って頷きながら、これからも追い打ちはかけまいと誓いました。
 プライドが高く(ごめん)とか(僕が悪かった)などとは、決して口に出さない夫でした。言い訳もしません。我が家の独裁者様は転職時も退社時も、転居のときも独りで決めました。私には事後報告のみ。でも、冷静沈着、的確に判断する夫と信じていましたので、黙って従ってきました。
 が、ことたばこに関しては、夫の体を気遣って異をとなえ続けてきたのです。夫は、苛酷ながんとどう折り合っていくのか、私にできることは何だろうか、たばことの本当の闘いは、今始まったのだと心を固めたのでした。
 平成一七年六月七日、病院へ向かう道の両側は、田植えを終えたばかりの田んぼで、頼りない幼い苗が風に揺れていました。心細い風景でした。突然夫が話しかけてきました。
 「五年しか生きられないか、五年も生きられるか、考えようだね。」
と。
 「そうよ。」
 励ますように力強く応じた私。けれど、心の中では「五年」という言葉が不安を掻き立てていました。しかかもかの問題ではなく、「五年」生きられるのだろうかと。かかりつけ医に五か月も発見してもらえなかったのですから。

 夫の肺がんは、手術できる限界とのことで、抗がん剤による治療がスタートすることになりました。夫は、ことの重大さを認識しはじめたようなので、急きょ買い集めた肺がんに関する本を、病室に持ち込みました。夫は猛然と読み、調べ始めました。そうして、
 「肺の仕組みや働き、知らなかったなあ。」
と、言ったのです。愕然としました。本の虫の夫、その博識には脱帽してきたのです。この無知、つまり、無関心だったということなのです。そういう私も漠然と分かっている程度なのですが。私共は、いろいろな話題でよく喋り、話し合いました。が、肺がんについて語り合ったことはありませんでした。
 わが国では、年間三十二万人ががんで亡くなるのです。国民の二人に一人が一生のうちにがんに遭遇する可能性があるそうです。それなのに、自分はがんとは無縁、たばこを吸っていた夫も肺がんとは縁が無いと思い込んでいたのです。無知・無関心の愚かさを思い知ったのです。
 抗がん剤の治療では、起こりうる副作用の吐き気・湿疹・便秘・白血球の激減などなどが次々と夫に襲い掛かりました。夫は必死に耐えているようでした。辛いことを自分からは口に出しませんでした。七十一歳にしては黒々としていた髪の毛も抜け落ちました。手鏡を覗きながら夫は、
 「がんが消えれば髪の毛はいいよ。」
などと呟きました。
 そんな抗がん剤も効き目がなくなりました。が、がんが少し小さくなったからと、俄に手術が決まりました。しかし、光明が見えたのも束の間で、鎖骨のところに取り切れないがんが残ったとのことで、そこを叩く放射線治療が待っていたのです。
 「元の木阿弥だな。」
と、力を落としたかに見えた夫も、黙々と照射を受け続けました。声が潰れ、食欲も落ち、胸はどす黒いケロイドのようになり、痛々しく、さぞしんどいのではと胸が詰まるのですが、ずっと平常心でした。
 夫は、自分のがんはどうなっているのか、医師に尋ねたいと、いつも思っていました。医師というのは、治癒の見込みがなくなった患者に対しては、関心が失せるのでしょうか。手術の様子・予後のこと・今後の治療のことなど質問しようとする夫に対して、心から向き合ってはくださいませんでした。夫は、病のほかにそのことにも耐えているようでした。
 厳しい治療を乗り越え、弱気を見せず、私に当たることもなく一年近い病院生活を終えて、退院の日を迎えました。その間、がんの三大治療を受けての退院、しかも今度具合が悪くなったら治療法は無い、緩和棟に行くようにと宣告されての退院でした。
 帰宅するや、夫は、退院祝をしてお世話になった方々を招きたいと言うのです。夫は、パソコンに向かい招待状作り、私は会場探しなどで慌ただしい日々が始まりました。
 平成一八年五月七日、親戚などが二十名ほど集まり、笑いも湧く和やかな会となりました。夫は、家に戻ったとき、
 「ありがとう、いい会だった。君の挨拶もよかったよ。これでお別れ会も済んだ。」
と言ったのです。
 「そう。」
 私は心は穏やかではありませんでしたが、気付いていなかった素振りで、静かに受け止めたのです。
 その夜も夫は、パソコンに向かっていました。お礼状でした。あの会は、お別れ会であったこと、葬儀など死後のことは全て私に指示してあること、生前お世話になったお礼の言葉などなど、細かいところまでの気配りが記されていました。そうして、三週間後、夫は旅立ちました。
 病は克服できないと考え、死期を予測して旅立ちの準備をきちんと整えて逝ったのです。勝気な夫は、どんなにか悔しかったことでしょう。それでも潔く受け入れて眠りについたときの顔は(これでいい)と言っているようにも見えました。でも
 「もう打つ手は無い」
と、医師に告げられたとき、
 「残念だな。−−−−−ちい坊(私のこと)の言うこと聞けばよかったな。」
と独りごちた夫の顔も重なり、胸が張り裂けそうでした。夫の体を思い投げかけてきた言葉も意余って言葉足らずだったと悔やみました。会社の人事で悩み、ストレス発散のための喫煙もあったでしょう。それが支えられなかった力不足も後悔しました。
 夫と永別し、たばことの闘いは今度こそ終わったかに見えるでしょう。けれども、たばこに黒く汚染された夫の右上葉の塊は、鮮明に目に残っています。精一杯闘っていた夫の姿も決して薄らぎません。力になれなかった自分の無力さも悔やみ続けています。
 そう、たばことの闘いはエンドレスなのです。自分の健康に関して、ましてやがんに対して、無知・無関心であってはいけないのです。病の予防に気を配らなければ、自分や自分の大切な家族を守れないのです。
 「ごめんね。」
と言われたけれど、切ない思いはいつまでもいつまでも追いかけてくるのです。


解説
(日本禁煙学会)


 肺がんは今日本で一番多いがんで、2005年には男性約45000人、女性約17000人が亡くなっています。タバコを吸っている人が肺がんになった場合、それが喫煙に起因する割合は90%に達します。
 タバコを吸わない人と比べると、その危険性は日本では4~7倍程度といわれています。そしてタバコを吸い始める年齢が早いほど、またタバコの本数が多いほど、さらにリスクは増大します。早期に発見されるのは全体の3割程度で、手術ができないときの生存期間は約1年あまりです。