2008年「タバコ:あの人にもっと生きてほしかった」コンテストのページにもどる


入賞作品

2位 池田 智子 様 笑顔のあなたにもう一度会いたい


 二〇〇六年、六月十七日の夜。
 私はワイングラスを片手に居間でテレビのスイッチをつけた。特別に見たい番組があったわけではない。なんとなく習慣になっていた九時からのニュースを見るためだ。アナウンサーがニュースを話し始めてから五分もたっただろうか、画面の上にテロップが流れた。その左から右へと動く文字を目で追った瞬間、私の目も心も凍りついた。
 唇から「嘘よ。嘘だわ」と言葉がこぼれた。
「ラグビー元日本監督・宿沢広朗氏が急死」
 二回繰り返された訃報に私の思考すら止まってしまった。つい、一週間くらい前、「二年ぶりに大阪から東京に戻ってきました。久しぶりにゴルフでもしませんか? と、いっても僕はここのところ山登りにはまっているんですよ。だから、たまにはゴルフもいいかなぁ、と・・・・・・。ね!つきあってくださいよ、ゴルフ。また、電話します」と明るく話していた宿沢さんが亡くなるなんて、私にはどうしても信じられなかった。
 だが、翌日の朝刊で私の「宿沢さんが亡くなったニュースは誤報であって欲しい・・・・・・」とのかすかな望みは根底から覆された。
 社会面に経済面に、そしてスポーツ面にも宿沢さんの訃報が大きく載っていたからだ。
 昨日の十七日、友人達と群馬県の赤城山に登山した宿沢さんは昼頃に頂上に到着。胸が痛いと横になっていたが、下山を呼びかけられて「あ、いいよ」と立ちあがった。それが彼の最期の言葉になったそうだ。リュックを背負い二、三歩歩いたところで倒れた。救急ヘリで群馬大学の医学部に運ばれ、最新療法を施されたが宿沢さんの心臓は蘇生しなかった。死因は心筋梗塞。享年五十五歳。あまりにも早すぎる突然の悲報だ。

 宿沢さんは埼玉の熊谷高校から早稲田大学に進み、ラグビー部に入部。一六二センチの小兵ながら、人一倍の努力と的確な判断力でスクラムハーフとして活躍。彼の俊敏で知能的なプレーが早大を日本選手権二連覇に導く原動力になった。二年生の時から日本代表に選ばれ海外遠征も経験した。
「小さな天才」は選手としてだけでなく指導者としても日本のラグビーに大きく貢献した。
 八九年、ラグビー日本代表監督に就任。銀行員との二足のわらじを履きながら、就任一ヵ月後、強豪スコットランドを破り、九一年のワールドカップではジンバブエ戦で勝利をおさめた。日本がワールドカップで白星をあげることができたのは後にも先にもこの一勝だけだ。知と情熱を兼ね備えたリーダーとして一躍注目を集め、その戦いぶりは『宿沢マジック』と称賛された。銀行マンとしても、一日に数億ドルを動かす為替ディーラーとして活躍。四九歳の若さで執行役員に就任。将来の頭取候補と期待されていた。
 代表監督を退いた後も母校早大の監督を務めたり、日本ラグビー協会の理事や強化委員長に就き、日本ラグビーの強化に奔走。
 ラグビーに向ける宿沢さんの視線は常に世界を見つめ日本ラグビーが外国の強豪と対等に戦えるように具体的に考えていた。
『文武両道の別格なスター』の死を新聞もテレビも連日のように報道した。二〇〇〇人が参列した通夜や四〇〇〇人もの人が冥福を祈った葬儀のことだけでなく各界の著名人による惜別の文が特集記事として掲載された。
 突然、死に襲われた宿沢さんはさぞ無念であっただろうと想うだけでなく、私は遺された奥様やご子息達のことも考えた。すると、大きく深い悲しみが胸を押しつぶすようになだれこんできた。にもかかわらず、私は通夜にも葬儀にも参列しなかった。築地の本願寺にどうしても足が向かなかった。そこへ行って、遺影を前にしたら宿沢さんの死を心底認めてしまうことになる。それが恐ろしいほど恐かった。私にとって彼は生きている、私の胸の奥にはあの人なつこい笑顔の彼が生きている、その想いが葬儀場に行ったら根こそぎガラガラと崩れてしまう・・・・・・、それがたまらなく嫌だったからだ。
 それでも我が家の仏壇に宿沢さんが大好きだった真っ赤な薔薇を供え、線香をあげ、手をあわせ、冥福を祈った。そうすることは私にとって、心を裂かれるほど辛かったけれど、何もせずにじっとしていることもできず私だけのお葬式をした。

 私が宿沢さんに初めてお目にかかったのは「歴史的な勝利」をおさめたスコットランド戦に勝利した翌日のことだ。宿沢さんと同じ金融界で仕事していた関係で彼の勤めている銀行を訪問し、社員食堂に通じる廊下で二、三人の人と話しながら前から歩いてきた宿沢さんとばったりお会いしたのだ。すれ違う時に「宿沢監督、昨日はおめでとうございます。すばらしい試合でした」と私は思わず声をかけてしまった。
 立ち止まった宿沢さんは私に目を向けてにこっと笑い「やあ、ありがとう。あなたはラグビーがお好きなんですか?」と訊いた。
「はい。競技場まで観戦に行くほどです」
「そうですか。それはありがたい。これからも応援をお願いします」と、ぴょこんと頭をさげた。それから私達は名刺を交換して、それぞれの目的に沿って右と左に別れた。あの時、将来、宿沢さんにお会いすることなどないと思っていたが、翌年の秋、再会した。
 私の会社の創業記念の顧客向けのイベントとして宿沢さんに講演を依頼したところ、「いいですよ。やりましょう」と快諾してくださったからだ。
 横浜で開いた中小企業の経営者向けの講演会はホテルの広いホールが一二〇〇人の出席者で埋まり、熱気にあふれた。
 講演のテーマは『人材育成』だ。宿沢さんは最強のチームをつくるために選手をどのように育てるか、というところから話し始め、監督は勝つ可能性を引きあげるのが役目であると締めくくった。講演が終わった瞬間、それまでしぃーんとしていた会場が大きな拍手で揺れた。選手を育てるには短所を直す方に精力を使うよりも長所を伸ばすことこそプラスになる。短所を直すことには限度があるが、長所を伸ばすのは無限だ。それから、戦法を選手に徹底させるには理論の裏づけがなければならない。『どうして』とか、『何故』をきちんと説明すること、の二点が強く印象に残った。そして講演を聞いた私のなかでリーダーとして、また職業人としての彼に対する尊敬の念がより深まった。講演会をきっかけに私達は時折の電話や食事、年賀状くらいのおつきあいをするようになった。
 陽射しに夏の名残が感じられる秋の週末。箱根でゴルフをしたことがあった。赤トンボが群れる空の遠くに投げられた宿沢さんの眼差しは眩しそうだった。
「あそこにキラキラ光る湖は?」
 影絵のような林の梢越しに陽を弾き返す水面が輝いていた。
「芦ノ湖ですね」
「そうか、芦ノ湖なんだ。きれいだねぇ」
 そう言って私に向けた笑顔はとても爽やかだった。自然の中で遊んで、まるで自然に溶けこんでしまった少年のような瞳だった。
 ご家族のことを話す宿沢さんがとろけるような笑顔だったことも忘れられない。
「息子がネ、ラグビーを始めたんだよ」と言ったとき、宿沢さんは目を細めて笑った。
 宿沢さんの思い出の最後はタバコだ。食事の後、ゴルフやお酒の合間には必ずおいしそうにタバコを吸っていた。
 彼の愛用はセブン・スターだった。
「格闘技と言われるスポーツをなさっていたのにタバコを吸われるんですか?」
「現役を引退してから吸うようになった。七年半、イギリスに赴任して向こうの強いタバコを吸ってからさらに病みつきになってね」
「でも、普通の人の二倍どころか、三倍も四倍も忙しいんですもの。少し控えた方が良いのではないですか?健康のために」
 一度だけ私が苦言を呈した。
「わかってるよ。でもサ、だからこそタバコが必要なんだ。そう、思わないかい?」
 確かに銀行でもラグビーでも重責をになって働いているのだから、彼のストレスは想像を超えるものに違いない。だが、彼ほど意志の強い人でもタバコに頼らずにはいられないのだろうか・・・・・・。頭のなかで彼のタバコを理解しよう、わかってあげようと思ったが心配が消えなくて「やめられないなら、減らしてみてください」とまで言ってしまった。
「それが減らせないんだ。一日に三箱か四箱は吸っているよ。夜には大きな灰皿に吸殻が山盛りになっちゃう。けれど、僕はスポーツ選手だったんだ。肺も心臓も鍛えているから大丈夫だと思わないかい?」
 そう言った宿沢さんに対して私には返す言葉が見つからなかったが、しばらくして私の胸に不安が生まれた。激しいスポーツで体は鍛えられただろう、だが、肺も心臓も無理をさせられてきたはずだ。大丈夫というのは自己過信ではないだろうか、そのうえタバコを吸うのはいけないはずだと思った。
 宿沢さんの命を奪った心筋梗塞。もし、もし、彼がタバコを吸っていなかったら群馬大学での治療を受けるまで彼の心臓はきっと生きていたのではないかと悔やまれてならない。
 宿沢さんを失った日本ラグビーの低迷には目を覆うものがある。日本ラグビーの未来を担うべき人はもういない。すべてのラガーマンには宿沢さんの遺志を継いで、もっと、もっと汗を流してもらいたいと思う。
 宿沢さん!私はあなたに会いたい。もう一度会いたい。あの人なつこいにこっとした笑顔のあなたに。                    合掌