2008年「タバコ:あの人にもっと生きてほしかった」コンテストのページにもどる


選外優秀作品

森木 エリ子 様 「こんちゃ!」


 今でも覚えているのは、ザックを背負い、登山靴にニッカズボン、チロルハットを被って、指に煙草をはさんで微笑んでいる久司郎の姿だ。彼は夫と同郷で、幼児から親しみ、小学校、中学校、高校時代と一緒だった。真っ先に紹介された夫の無二の友だ。
 わたしたち夫婦と久司郎の三人は、休暇が合えば山に登っていた。南アルプス、北アルプスなど、数日をかけて歩いた。山中で何日も過ごすと、人は我が儘(まま)
な部分も出てくるものだが、久司郎の明るい性格は、いつも同じペースだった。わたしたちが疲れて無口になりそうなときも、軽口を叩いて和ませてくれる人だった。
 山では、会う人ごとに「こんにちは」と挨拶し合うマナーがあるのだが、久司郎はとびきり明るい声で、自分から「こんちゃ!」と声をかけた。休憩所や山小屋などでは、だれとでも打ち解けた。
 けれど彼は、下り道では、自分から挨拶を発しなかった。山ですれちがう場合は登り優先で、下る人は道を開けることになっているが、その度にペースが狂って、結構疲れる。それなのに彼は、登ってくる人を認めると、かなり早めに横によけて待っている。そしてすれちがうとき、黙っているのだ。でも相手が挨拶をすると、すぐに励ますように「こんちゃ!」と返すのだった。
 登るときは苦しい。やたら挨拶をすると、道を開けてもらったほうは返さなければならないので、彼は敢えて言葉をかけないのだった。でも自分が登っているときは、道を開けてくれた人に、苦しくとも笑顔を向けてこちらから挨拶をする。書いてしまえば簡単だが、これはなかなか実行できることではなかった。
 それは久司郎が、体力的にもゆとりがあったからでもあるだろうが、彼の思いやりある性格が、そうさせたのだとわたしは思う。この、思いやりからくる明るさは、久司郎の美学に思える。
 わたしは自分の荷物は、必要最小限度のものだけを詰めて、できるだけ軽くする。久司郎は自分が持てるギリギリまで詰める。久司郎のザックは、エッと言うほど重い。彼はザックからリンゴやら桃の缶詰やら出して、わたしたちを喜ばせてくれたり、大きな凧を忍ばせてきて、甲斐駒ヶ岳の頂上であげたこともある。
 でも気になることがあった。彼は休憩のたびに、景色を眺めながら喫煙した。夜もテントや山小屋で、ここぞとばかりに喫煙した。彼と煙草は、わたしの記憶の中でセットになっているほどだ。
「久司郎、こんな空気のいいところにきて煙を吸うなんて、もったいないなあ。深呼吸してみて。空気が美味しいよ」と言うと、
「美味しい空気の中で煙草を吸うと格別に旨いんだ」と言う。
 当時は「煙草は動くアクセサリー」というしゃれたキャッチコピーが流行った時代で、喫煙は当然といった風習があった。
 わたしの勤務していた会社でも、就業開始のチャイムと同時に、まずは一服と、男性達が煙草を吸い、天井は綿雲が垂れ下がったような状態になり、オフィスの向こうは紫煙で見通しが利かなくなった。その朝の一発で髪が臭いを吸った。彼らはくわえ煙草で仕事をし、分煙の被害を浴びる側が文句を言えない世の中だった。
 久司郎が結婚すると、夫婦二組でキャンプに行った。三十代を過ぎると、あれほど遊んだ久司郎となかなか会えなくなったが、正月に帰郷して、これもまた帰郷した久司郎に会うと、わたしたちは、昨日も会っていたかのようになじんだ。
 けれど奥さんは彼の健康を心配していた。久司郎の職場は忙しくて定時に帰れない。ほぼ毎日接待などで飲んで帰る。ただでさえヘビースモーカーだった彼は、話の合間も煙草を手放さない。
 久司郎は相変わらず軽口を叩いてわたしたちを笑わせた。でも少し太ったというか、むくんだ感じがして、顔色もよくなかった。人生若い時代だけじゃない。これから先も続いていく。もっと自愛してほしい。彼の指先の煙草を見て、わたしも案じた。
 わたしたちが五十七才の夏、久司郎が入院した知らせが入った。肺癌だ。夫が病院に出かけて行った。やがて小康状態を得て退院したが、年が明けて再び入院したという知らせが入った。それは久司郎の奥さんのお母さまからの電話だった。肝臓癌も併発していて、もう処置の施しようがないと言う。わたしが電話を受けた。
 このお母さまとわたしは、一度お目にかかったくらいで、あまり知らなかったが、お母さまは、矢も盾もたまらずに幼馴染みの友達に電話してくださったのだった。
「久司郎さんは本当にいい婿さんでしたが、私の娘や孫を残して、こんなに早く逝ってしまうなら、いい婿さんとは言えません」
と、年老いたお母さまは身も世もなく嘆いた。
 わたしは、夫の勤め先には、滅多なことでは電話をしないのだが、このときは電話した。夫は勤務時間が終わると、すぐに帰ってきて、夕食もとらずに出かけた。わたしも一緒に行った。片道三時間かけて病院に着いたときは、深夜になっていた。
 久司郎は口がきけない状態だったが、目でわたしたちを見た。そして片手をゆっくりと挙げて、奥さんに何か伝えようとした。奥さんが口元に耳を寄せた。
「久司郎が、お茶を出せって言っている」と、奥さんは言った。
「久司郎、僕らはお茶を持ってきているよ」と、夫は持参のペットボトルを見せた。久司郎らしいなとわたしは思った。
 夫はポケットから、草色のネクタイを出して言った。
「久司郎、覚えているか。お前が初給料で買ってくれたネクタイだぞ」
久司郎は高校時代に父親をなくし、大学進学を断念して就職した。成績は優秀だった。高校では生徒会会長を務め、わたしの夫は副会長。その夫が大学に行った。久司郎も大学に行きたかっただろうが、彼はその言葉を口にしなかったそうだ。
 そして初給料をもらった日、東京で下宿している夫に、回転寿司屋に行ってご馳走してくれ、ネクタイを買ってくれたのだ。夫も苦学生だったそうだが、親の仕送りで暮らしていられる身分だったのに。「いくらでも食べろ。俺のおごりだ」と、久司郎はわずかな給料ながら、自由になる、まとまったお金を得て、嬉しそうに言ったという。久司郎は、まことに何と明るい美学を持った友だったことだろう。
 病室を退出するとき、夫は久司郎の手を握りしめて言った。
「おい久司郎、時間が持てるようになったら、また大いに会おうじゃないか、と言い合ってきただろう。定年退職まであと三年だ。おい久司郎、俺たちの仲はこれからなんだぞ。がんばれよな」
久司郎は人なつこいエクボをつくってうっすらと微笑んだ。
「久司郎、俺はこれから休日は必ずここにくるぞ。お前が元気になるのを見にくるぞ」
 でも、その休日を待たずに、久司郎は逝ってしまった。二〇〇八年三月、桜の蕾の膨らみかけた、ほのあたたかい夜だった。
 お通夜も告別式も、葬儀会館には入り切れないほどの弔問客があり、久司郎の今生での交わりの広さを物語っていた。現役でもあったので、会社の上司、同僚、部下が、平日だというのに会場に長い列を作った。
 久司郎のお母さまは高齢で病院に入っている。息子の死を知らない。痴呆が進んでいるそうだが、久司郎のことはよくわかり、たびたび見舞っていた息子を待っているので、隠し通すことは難しいと、親戚の人が話し合っていた。
 親族が久司郎の眠る棺に花を捧げ、次に弔問客が花を捧げた。奥さんは、彼女も意識しないまま、棺の上方に無防備に立ちはだかり、大勢の弔問客を棺の後方に従えて、子供のように泣いた。立派に成長した息子と娘が、ほっそりした母親を支えた。
「せめてこの子たちが結婚するまで生きていてほしかった」
「せめてご母堂を見送るまで生きていてほしかった」
「せめて定年まで職場で活躍してほしかった」
人々の口から、「せめて」という無念の言葉が溢れた。
 けれど、「せめて煙草を・・・」という言葉が一言、どこかから漏れると、ザワザワしていた周囲が、一瞬、静まり返る。そのあとの言葉はない。何か緊張走った空気が流れる。水を打ったような沈黙に、百万語の思いが渦巻いている。
 ああ、どうして言えようか。今さら詮なきこと。今までに、どれほどわたしも彼に忠告してきたことだろう。でも、周囲の者には限界がある。それは本人が為すことなのだ。彼は日も夜もない多忙の職場を、愚痴ひとつこぼさず、陰口をきかず、明るく切り盛りしていたので、大きなストレスを抱えていたに違いないと、みんなが知っている。
 久司郎が喫煙で命を縮めたと断言し切ることはできないが、そうではないと断言することはさらにできない。医師は、久司郎を癌に誘った原因のトップに大量なる喫煙をあげている。だれもだれも彼の死を惜しんで、「せめて」という思いを繰り返し、繰り返し反芻するばかりだ。それを考え過ぎると、鬼になってでも彼から煙草を取りあげなかった自責の念に苛まれる。
 エネルギッシュで明るかった久司郎。スッキリとかっこよかった久司郎。優しくて、サービス精神旺盛だった久司郎。まるで、わたしの竹馬の友のような気がする久司郎。家族に愛され、仕事仲間に信頼され、ご近所に慕われ、そのほかにも、たくさんの仲間に囲まれていた久司郎。数え切れない人々に愛を送った久司郎。
 だれが・・・ ・・・だれがこの人を、こんなに青むくれた不健康な体にしてしまったのだ! 彼の指先でいつもくゆっていた、彼の内臓に常時侵入していた、あの煙が・・・憎い。
 今、アルバムの中で久司郎は笑っている。じっと見ていると、「こんちゃ!」と、元気な声が聞こえてくるようだ。久司郎、年月なんて一気だね。こうしていると、あの日のことが、つい最近のことのような気がしてくるよ。過ぎてみれば一気なんだ。だから久司郎、待ってて。わたしたちもやがて行くから。そのときこそ、また一緒に遊ぼう。心ゆくまで、歌ったり話したり、歩いたりしようね。肩を叩き合って笑った、ピッカピカに楽しかった、あの日のように。