2008年「タバコ:あの人にもっと生きてほしかった」コンテストのページにもどる


選外優秀作品

佐々木 美香 様


 父は若い頃からたばこを吸っていた。私の知る限り、一日二箱を四十年以上吸い続けていた。父は健康そのものだったし、私は父が風邪で寝込んだ姿すら見たことがなかった。
 そんな父も六十歳を過ぎてさすがに免疫力が落ちてきたのか、珍しくインフルエンザにかかってしまった。だが、この時たばこを吸って息苦しくなったのが相当懲りたらしく、父はきっぱりとたばこをやめた。その日のうちに家にあったたばこを全部ゴミ箱に捨ててしまった。禁断症状も全くなく禁煙に成功したのはまさに奇跡だった。
 「変な咳してるねぇ」
禁煙してから五年程経つのに、父の咳は日増しに酷くなっている様だった。
「結核やったらどうするん?最近また流行ってるらしいよ」
私は父に病院に行くように勧めたが、根っからの医者嫌いの父は聞く耳を持たなかった。
 ところが数ヶ月後、父は突然、
「ちょっと病院行ってくる」
と言った。いつものようにゴホン、とやったら血痰が出たので、さすがに不安になったらしい。検査の結果は肺がんだった。
「肺がんって・・・・何で?たばこだってもうずいぶん前にやめたのに・・・・」
私達家族は愕然とした。だが当の本人は、
「よかった、結核じゃなくて。結核やったら他人にうつしてたかもしれんやろ?でも肺がんやったら、自分が苦しむだけで済むから」
と言っていた。いつも周りの人のことを気遣っている父らしい言葉だな、と思った。
 父の闘病生活が始まった。幸いにもほかへの転移はみられなかった。ただ、場所的に手術不可能だったため、入院して抗がん剤と放射線での治療を行った。見た目には丈夫そうで元気そのものな父だったので、誰からも、
「病人とは思えない」
と言われていたが、抗がん剤の副作用は私達の想像以上に辛いようだった。じっとしているのが嫌いな父で、病室にいないことが多かったが、投薬後数日間は、食欲もなくなりベッドから下りることができなかった。それでも私達に一切弱音を吐いたことはなかった。
 治療の甲斐あって、二ヶ月後父は晴れて退院することができた。通院治療は続けていたが、検査の結果も良好で、先生にも、
「これなら大丈夫!長生きするわ」
と言われたので、父はすっかり完治したようなつもりでいた。
 ところが、その後父の体調は良くなったり悪くなったりで、入退院を繰り返すこととなった。入院の度に本当に治るのだろうか?と疑念が広がり、時にはポツリと、
「自分の人生は満足いくものだった」
などと遺言めいたことを口走ったりするようにもなった。そしてがんと診断されてちょうど一年経った夏、父に異変が起こった。会話の途中で急に言葉が出てこなくなったり、呂律がまわらなくなったりするようになった。
父が、
「薬の副作用のせいちゃうかな」
と言っていたので、私達もそう思いこんでいた。だが、私達は重大なことに気づかずにいたのだった。
 父の通院に付き添っていた私は、先生の話を聞いて頭が真っ白になった。
「脳転移でかなり危険な状態です。余命は、もって数ヶ月・・・・」
先生の言葉に父はニコニコ笑っていた。私は不謹慎にもまるでドラマのワンシーンのようだ、と思った。そして、父の残り少ない人生の日々をどのように過ごさせてあげればいいのだろう・・・・そればかり考えていた。父はずっとニコニコ笑っていた。もしかして自分が死の宣告を受けたことも判ってないのかもしれない。それなら私は父を最期まで励まし続けよう、絶対に治ると言い続けよう。そう思った矢先、父が全身痙攣を起こして倒れた。
 救急処置の結果、なんとか一命をとりとめた。本能なのか、ベッドにじっとしているのが堪えられないようで、何度も点滴の針を抜こうとしたり、ベッドから下りようとしたので、終いには両手にグローブをつけられ、ベッドに縛り付けられてしまった。なんて残酷なんだろうと思ったが、仕方がないと心を鬼にして我慢した。それでも何とかして起き上がろうとする父を見て、いきることへの執着心を強く感じた。
 延命に過ぎない脳への放射線治療も、もしかしたら奇跡が起こって治るかも知れないとの思いから、行った。治療は効果を表し、父はベッドに腰掛けてテレビを見たり、弱々しい声だが会話もできるほど快復していった。なんとしても家に帰るんだという気持ちから一時は、自分の力で車椅子に乗り移れる程にまでなった。看護士さん達も驚いていた。そして涙を流して喜んでくれた。本当に奇跡が起こったのかもしれないと皆が思っていた。だが、がんは私達をあざ笑うかのように再び暴れ始めた。
 父が倒れて三ヶ月経った頃、父は何度も吐血するようになった。その様子は壮絶過ぎて私は心の中で、
「パパ、もうがんばらなくていいよ」
と叫んでいた。そしてまたあの痙攣が起こり始めた。先生からは、
「今度また痙攣が起こった時は、覚悟してください」
と言われていた。それでも父は体調のいい時には、以前のようにジョークを言っては皆を笑わせていた。ただ、もはや起き上がる体力も気力もなくなっていた。そして十一月最後の日、父は静かに七十一年の生涯を閉じた。
 父の死後、遠方から沢山の友人が駆けつけてくれた。また父について色々な話を聞かせてくれた。父がいつも周りに気遣っていたこと、いつも明るく場を盛り上げていたこと、阪神大震災の時には、近所の老人の為に遠くまで水を汲みに行き運んであげていたこと、入院中は不安に思っている他のがん患者を一生懸命に励ましていたこと。父は歴史や地図に残るような立派なことはしていないけれども、常に人の為になるようなことをしていたと知り、とても誇らしい気持ちになった。
 父が生きている間に何一つ親孝行ができなかったのが悔やまれてならない。父が、
「自分の人生はいい人生だった」
と言っていたのは私達にとっては救いだが、もっと早くたばこをやめさせていれば、父はがんにならなかったのかもしれない。もっともっと生きていてほしかった。もっともっと親孝行させてほしかった。